十七になった七月のその日、俺は長年書いていたブログを消した。机の一番下の抽斗に隠していたエロ本を棄てた。最後に携帯を解約して自由になった。
 目的地はどこでもよかった。家出するのに行き先を決めるなんてナンセンスだ。ただ漠然と西がいいと思った。「いい日旅立ち」。父親の好きな古い歌が頭を過ぎり、銀行で下ろした金で博多行きの新幹線の切符を買った。
 岡山で新幹線を下りたのは、途中で見た明石海峡大橋のでかさと、ちらちら顔を見せる海の輝きに心を惹かれたからだった。それに博多まで行ったらつかまるのも早いかもしれない。家には解約前の携帯から「夏休み最終日には帰る」と留守電を入れたけど、きっと両親は放っといてはくれないだろう。
 岡山駅でいったん改札をくぐり、きっぷ売場の路線図を見上げて少し考えた。
 とりあえずは海が見たい。さしあたって、どこまで行こう。
 今度は春先に読んだばかりの村上春樹の小説が脳裏をかすめ、宇野という駅までの切符を買った。本州側の港町で、駅前から高松行きのフェリーが出ている。船の上から瀬戸内の島々と瀬戸大橋の向こうに沈む夕陽を眺め、一時間ほどで高松に着いた。
 その日は港の目の前のホテルに泊まり、翌朝は夜が明ける前から海辺を歩いた。小説だと家出してきた少年はここで仕事を見つけるが、現実じゃそんなにうまくいくはずもない。ひたひたと護岸を打つ水面を見つめながら、これからどうしようか考えた。
 また電車に乗ってどこかへ行く? それともバスで? 四国も中国地方も九州も、俺は一度も来たことがない。どこへでも行きたい気分と、どこへ行ったらいいかわからない気分。行く宛のない心許なさと、足枷のないすがすがしさ。いろいろなものがない交ぜになる。一つだけはっきりしているのは、こうして誰も自分を知らない町にいると、呼吸がとても楽だということだった。
 次の行き先を決めかねて、結局その日は讃岐うどんを食べに行った。べつに一日だらだらしてたって咎める人もいない。この夏休みは特別。俺は自由だ。駅前でレンタサイクルを借り、地元民に評判だという店を一日かけて何軒か回った。
 それを見かけたのは、まったくの偶然だった。
 チリーン……とかすかな鈴の音が聞こえる。細い畦道を黙々と歩く人影。白い和服みたいなのを着て、時代劇みたいな菅笠をかぶり、まるで影絵みたいに現実感がなかった。背中に背負ったバックパックで、かろうじてあれが幽霊じゃないとわかる。
「お遍路さんや」
 隣でうどんを啜っていた人が呟いた。
 遍路。
 名前だけは知っている。もっともとっくに絶滅したんだと思ってたけど。
 物珍しさで、俺はその人を目で追った。
 ただ黙々と、黙々と陽炎にゆらめく畦道を歩く背中は、こちらの世界とは隔絶していた。存在そのものが影みたいだ。その非現実的な雰囲気になぜか惹かれた。
 繁華街のインターネットカフェに移動し、情報を集めた。四国中に点在する八十八の寺をつなぐ約千二百キロの巡礼路。その昔、弘法大師 空海も歩いたという道は、徳島の寺をスタートに、だいたい四十日くらいで歩けるらしい。スムーズに行けば夏休みのあいだに歩ききれる。
 なにより俺の心を惹き付けたのは、サイトで見つけた一言だった。
「歩き遍路で人生観が変わりました」。
 それでこの夏の予定が決まった。